先生の楽譜の読みの深さは驚くべきもので、
「何故この音がかかれているの?それを知らなきゃだめだよ。」
そこから始まる。
和声、形式、歴史的背景などの基本的なアナリーゼは勿論のことだが、またその一方で、
「この音いい音だよねぇ。」
と感覚的な事を大切にしていらした。 1つの音の大切さを勉強するために、ピアノで音をポーンと鳴らして、耳を済ましてその倍音をよく聴くという事もしょっちゅうあった。
また作曲家の性格の分析をして、心理学的見地から楽譜を読んでいらした。
例えば<Moderato>と言う表示記号ひとつを取ってもいくら音楽用語と言っても作曲家によって全然ニュアンスが違うことを意識していらしたし(作曲家の中にはイタリア語を正しく理解していない作曲家もいた)、一曲の中に同じ<フォルテ>でも沢山の種類があって、それをさらに作曲家の性格(先生はできる限り自筆譜を調べていらしてその筆跡から性格を判断していらした)から解釈していらした。
あるいは作曲家によっては、1つの曲の中で同じディミニュエンドでも、記号の>と、dim とでは全然音楽が違う事などetc
etc...........。
「譜面を読む時は印刷された音の裏側を読むことだよ」
このようにして、自分の解釈に確信を持てたとき勝手に手は動く。それが先生の指揮法についての教えだった。だから棒のレッスンはほとんどしなかった。
また、渡邉先生が昔の話をすることはほとんど無かった。(弟子入りしてからお亡くなりになるまでの5年間、唯一の例外は軽井沢にご一緒した時に「ここが信子と初めて出会った場所なんだ。」と懐かしそうに話をされたときだった。)
常に将来を見つめ新しいことを考えていらした。
例えば先生の口癖は、
「キミたちの世代の指揮者がいつも半世紀前と同じプログラミングじゃだめだ、必ずお客さんが減るよ。」
「僕等音楽業界の人間は、過去の作曲家でメシを食ってる。だからその恩返しを今の作曲家にするのは、好き嫌いじゃなくて義務なんだよ。古いものを大切にすると同時に新しいものを育てるのが文化なんだ。」
「(日フィルの)親子コンサートは定期演奏会と同じぐらい重要なんだ。若い人達に全身全霊で音楽の素晴らしさを伝えなければ。オーケストラの将来は彼等にかかってるんだから。」
etc,etc.........。 先生は沢山の言葉を残してくださった。
この絵は、1977年頃(先生は56歳)音羽のお宅で奥さまが描かれたもので、先生の楽譜に対する真摯な姿と、お部屋(僕はこの空間が大好きだった)の雰囲気が本当によく伝わってくる。
勿論、奥さまの先生に対する静かで深い愛情も。
今は軽井沢の別宅に飾られているのでなかなか見ることができないが、日フィルがこの絵をテレフォンカードにしたものをいつも財布の中に入れている。カードの中の小さな絵の中の先生が今でも僕の好きなときにレッスンしてくださる。きっとそれは一生続くと思う。僕にとって大切な大切な絵だ。
先生の思い出はまだまだ沢山ある。
弟子入りしてからレッスンといえばピアノを弾くだけだった。10ヶ月後初めて「明日、指揮棒を持っていらっしゃい」といわれて、次の日レッスンに行くと、指揮しなさいといわれたのが、僕の弾いたベートーヴェンのソナタだった。先生がこっそり前の日の僕の演奏を録音していて、それを交響曲だと思って指揮したのだ。
さすがに手は勝手に動いた。要は曲が体に染み込んでるかどうかということだ。(ただあまりにも僕の演奏がひどくてすごいショックだった。)
先生が亡くなられる直前に、僕は初めての外国のコンクール(外国に行ったのもこのときが初めてだった)に受けに行った時のこと。
僕は、プラハの春国際コンクールで最後の3人に残っていて、優勝するつもりだった。とにかく初めてヨーロッパのプロのオケを振って3人の1人に選ばれたもんだから、最終審査の前はすでに天狗になっていた。それに審査委員長が名指揮者のクーベリックで僕は完璧に舞いあがってた。最終審査は名門チェコフィルを相手に「新世界」とマーラーの交響曲4番。結果は最悪。優勝できなかった(このときは結局誰も優勝しなかった)。
僕は、先生になんて言えばいいんだろう?先生は怒るだろうなと考えながら飛行機の中で一睡もせず成田から病院に直行した。
ベッドの上で先生はニコニコしていらして
「サッチ−ノ(先生は僕をそう呼んでいらした)が3人に残ってるって聞いてサ、優勝しないようにってお祈りしてたんだよ。今、優勝したらキミはイギリスで(留学は決まってた)真面目に勉強しないだろう?まだまだ早いよ。」
その後イギリスに行って「まだ早いよ」の意味が身に染みて理解できた。
今でも本当に先生のことをよく思い出す。 1日に何回思い出すだろう? 本当に先生には感謝し切れない。 残念なのはデビューする前に亡くなられたことだ。(僕が渡英する直前に亡くなられた。)せめて1度でいいから僕のコンサートに来ていただきたかった。
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