藤岡 幸夫 様
吉松さんの新譜ですが、CDは前回メールを差し上げてから間もなく届き、早速
愛聴し始めましたよ。
藤岡さんは「わかる、わからない」という事よりも、「感じる、感じない」と
いう事を重視されるようですね。僕も同感です。
でも、今回は、「わかる、わからない」と「感じる、感じない」の両方の側面
をもったような感想を申し上げようと思います。
聴く前はじっくり時間をかけて吟味してからメールをお送りしようと思ってお
りましたが、あまりにも素晴しい作品、および演奏なので、早速感想を述べさ
せていただきたくなってしまいました。

主として交響曲第3番に関する感想です。この作品は今までの吉松さんの集大成
あるいは軌跡ですね。吉松さんは早くから各方面から注目をあび、そして注目さ
れるがゆえに、彼の創作活動も評論家たちが示す姿勢との葛藤の中から誕生した
可能性は否定できないのではないでしょうか?

過去の彼の作品にはそんな色が見えると思います。

「現代音楽はゴミだ」と吉松さんは言っておられるとのことですが、にもかか
わらず、彼の作品にも、彼自身が「ゴミ」と思っておわれるような要素が時折
含まれていたと思います。その他にも、彼の創作内容には自らの発言とやや矛盾
する側面を持っていたと思います。注目される人物の宿命かもしれませんね。
しかし、交響曲第3番は違いますね。
ご自分が「言いたかった事」を全て吐き出したような作品で、何度も繰り返し
聴いてみたくなる作品です。全楽章を続けて聴いていると、吉松さんの今まで
の葛藤が伝わってくるだけでなく、その葛藤に勝利し、「現代音楽」が封印して
いたものをついに解放してくれるという快挙を達成してくれました。
そういった道程がこの作品には刻み込まれていると思います。

演奏もまさに胸のすくような内容です。初演であるにも関わらず、あたかも多く
の演奏経験を積んできたような緻密さと力強さがあり、藤岡さんのこの作品に対
する力の入れようがいかに積極的で情熱的であったかが伝わってきます。
とても初演とは思えません。(第4楽章には、2番「テラにて」の終楽章とテー
マの共通性があったので、微笑ましいような、嬉しいような気がしました。
2番で言い残した事を言いつくしたかったのでしょうね。)

ところで、吉松作品の特徴として、どの作品にも調性感がありますよね。(もち
ろん、古典的な意味での長調、短調とは性格が異なるにしても....)調性感がある
ということは主音があるという事を意味しますよね。主音という言い方が古典
和声を想起してしまうのなら、重力方向とでも言えばいいかもしれませんが、
まあ、かわりやすいので、「主音」と言わせてください。
(もちろん、持続音、根音等ではなく、音構造の引力の中心としての主音の事を
言っているのは言うまでもありません。)
その主音ですが、交響曲第3番は、作品が大きいわりには、主音があまり変化し
ないように思います。
僕は「虹色に変化する転調」を期待していたので、その事に関しては、ちょっと
肩透かしでした。(それぞれの楽章の中で「転調の旅」をすることを想像してい
たのです。)
しかし、主音を制限することは何もマイナス面ばかりではないと思います。
ある特定の要素を固定または制限し、他の要素の変化によって音楽を構築すると
いう手段も面白いですよね。ラベルのボレロなんかは、その典型的な例ですよね。
主音の制限は、それ自体においては良いとも悪いとも判定出来ませんよね。
先に「肩透かし」と書いてしまいましたが、聴いているうちに、馴れてくると思
います。先日お送りしたメールの中で、僕はチャイコフスキーの「マンフレッド
交響曲」のことを、昔は「変な感じがする」と思っていたことをお伝えしました
よね。でも、今では僕の大好きな作品です。ただ、吉松さんの新譜を聴く前に、
僕が自分で勝手に想像していた事と違っていたので、ちょっと意外だっただけで
す。
オーケストレーションが見事なので、主音の制限による単調さは全くありません。
すばらしい作品および演奏であることには変わりありません。聴き続けているう
ちに、その必然性を感じるようになると思います。

又、こんな事も感じました。
吉松さんは12音技法に関しては、きっと否定的な見解をお持ちでしょうね。僕
も同じです。もしかしたら彼は12音が全部平等で決して主音など存在しない
この技法に対し、調性を持ちながら同時に主音(転調)を制限することで、
対抗心をあらわにしたのかなァ、とも感じました。つまり12音技法の無重力に
対抗し、一定の重力方向を示したかったのかな?とも思いました。

とにかく「よくやってくれた」と痛感させられる作品です。
藤岡さんの「レコード芸術」のインタヴユー記事の中に、
  「4楽章は吉松さんも、こんな恥ずかしい音楽を書いたことがないって
   いうくらいの代物で、(中略)演奏する側がキレて一点を超えないと
   音楽にならないんです」
と話されていますが、そのキレる部分ですが、恥ずかしい音楽だなんて、僕は
全然思いませんよ。
もちろん、藤岡さんの白熱の名演のせいもありますが、全然恥ずかしくありませ
ん。恥ずかしいどころか、低迷する現代音楽の突破口を開いた音楽だと思います
よ。恥でも開き直りでもありません。誇りと解放の音楽ですよ。そう思いました。

さて、僕は評論家を信じませんが、音楽界についての話題が普及することには
賛成です。
ただ、意見を言いたい時に言える立場の人と、言わせてもらえない人とに分かれ
てしまうことが納得できません。近年ではその二層分離は解消しつつあるとは
思いますが、まだまだ不足で、一部の人々があたかも特権的に物事を進めてゆく
ことに不満を感じます。
マルチメディアの時代はすでに来ています。双方向性に期待せずにはいられませ
ん。藤岡さんはその先駆的な役割をされていると思いますよ。(でも交通整理は
大変でしょうね。三拍子揃うということは難しいですね。)

ところで、藤岡さんは現代音楽に批判的な発言を示すことで、むしろ、現代音楽
関係者から、反論が出てきて、それによって、この分野を活性化させたいと思っ
ておられたようですね。
あなたの「現代音楽論」を見て僕はそのように読み取りました。藤岡さんの姿勢
はちょっと挑発的ですよね。でも、反応がなかったので、おやめになったとか...。
残念ですね。
僕はクラシック音楽界に対して意地悪な意見を持っています。そして、ポピュラ
ー音楽の肩を持つような姿勢を持っています。僕は本当はクラシック音楽が一番
好きですよ。でも、この分野の風通しの悪さを痛感するので、少々挑発的な事を
発言してしまうんです。しかしながら、どこの馬の骨かわからないような僕が
発言してもあまり効果はないでしょうね。小市民は悲しいです。

藤岡=吉松のタッグチームは現在最強でしょう。あなたが吉松さんにこだわるこ
とによって、良い意味でのライバルが現われるといいですね。でも、今のところ
他に有力な「チーム」は見当たりませんね。藤岡=吉松チームは実に大きな足跡
を残しつつあると思いますが、あなた方だけの存在では、多様性という意味に
おいては不足していると思います。対立ではなく、お互いに激励し合えるような
ライバルチームが欲しいですよね。それにはまだ時間がかかりそうかな?

                    1999年8月26日  ぴょーとる


ぴょーとるさんへ

いつもレターありがとうございます。
特にSy3のCDについては、ホームページの読者の方からの感想を
待っていましたので、うれしかったですよ。
今回のぴょーとるさんの感想は的を射ていると思います。
吉松さんにも見せちゃいますね!!

藤岡幸夫
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