この文章は、2000年4月13日に大阪フェスティバルホールで開催された第42回大阪国際フェスティバル・プログラムより、吉松さんが藤岡さんについて語った原稿を関係者のご好意により転載しております。
吉松さんの「藤岡さん評」、さすが本質を捉えています!?



 藤岡幸夫…大胆かつ繊細なその素顔によせて
吉松 隆  


 クラシック音楽界でプロをやっている人間のほとんどは音楽大学の出身者だが、たまに一般大学から紛れ込んできた人間もいる。実を言うと、私も藤岡幸夫氏もその口で、なぜか同じ慶応高校・慶応義塾大学の先輩・後輩の間柄。つまり元<慶応ボーイ>なのである。
 しかし、これほど対照的な慶応ボーイもない。私の方は学生時代ずっと本の虫で過ごした理工科系ネクラの硬派、対する彼の方はサーフィンと女性に明け暮れた(?)文科系ネアカの軟派。「たぶん学生時代に同じクラスだったとしても、絶対お友達にはならなかったタイプ…かな」と二人して笑いながら意見の一致を見ている次第である。
 ただ、若いころは「音楽と言ったらロック」という世間一般のごく普通の青年で通していてあたりは共通で、子供の頃からクラシックに親しみ音楽の才能をあらわしていた…わけでもない。それがなぜか突然クラシックに目覚め、気がついたら一方は作曲家、一方は指揮者になっていて、なんとイギリスで一緒に仕事をすることになるのだから、人生まったく分からない。
 マンチェスターでの最初のレコーディング・セッションが無事終わった後、「いやぁ、人生というのは不思議なもんだねぇ」と、二人して遠い目をしつつ、しみじみ語り合ってしまったほどである。
 以後、イギリスで作り続けている共同制作によるアルバムは、もう4枚になる。「交響曲は作れるが指揮は出来ないネクラの作曲家」と「指揮は出来るが交響曲は作れないネアカの指揮者」は今、前人未到の宇宙に向かって両輪をフル回転し始めたところなのである。

 そんなマエストロ・フジオカの指揮者としての最大の資質は、音楽に対する「直感 」の的確さにある、と私は見ている。作曲家の言う通り指揮する、あるいは楽譜に書いてある通り指揮するなどということより、音楽であることを真っ先に把握する「勘」の確かさ。それは、クラシック音楽だけで育ってきた無菌培養世代には真似できないロック世代としてのバランス感覚だろうか。
 そう。私も彼も、ロックより面白いからこそクラシックをやっているのだ。オーケストラのサウンドを体一杯に浴びそのシンフォニックな構築性を体感するのは、ロックンロールのリズムに血を躍らせる快感を凌駕する。その直感こそ、ロック青年をクラシックの道に進ませた要因であり、新しい層の聴衆を獲得する最大の武器になるはずなのだ。さらに、イギリスのCD会社を一遍で虜にしてしまう人間的な魅力(人なつっこさ)と、これぞと思った作曲家(私のことなのですが…)を掴まえる眼力、そして私の「現代音楽撲滅運動」をバックアップする大胆な(ちょっとアブナイ)言動と繊細な仕事ぶりを両立させる才気。それらもまた、類例を見ない彼の強力な「個性」だ。そこには、作曲家とオーケストラと聴衆の間を無難に取り持つ中間管理職的な指揮者ではなく、「妖しさ」と「怪しさ」を併せ持った唯一無二の仕事人としての指揮者がいる。
 そして蛇足ながら、慶応ボーイ時代にサーフィンで鍛えたスポーツマンとしての優れた運動神経と、女性を口説くことで培った(?)マメさと繊細さと大胆さを、音楽に向かって全開にしている点も要チェック・ポイントだ。そもそもトスカニーニもフルトヴェングラーもカラヤンも、大指揮者たちは決して芸術一辺倒のカタブツではなく、とことん音楽を愛し、人間的でセクシーで、優しさと大胆さを兼ね備え、独断を納得させる説得力を持っていた。そして彼もまた見事に、その素質充分なのである。そう言えば、ミューズの神は女性。マエストロは持ち前のマメさと繊細さと大胆さで彼女を口説き、これからも壮大な音楽の夢に向かって邁進し続けるに違いない。

2000年5月8日



この「藤岡評」に対する、藤岡さんのコメントは以下のとおりです。


吉松さんへ                   
素敵な文章ありがとうございます。プレイボーイの名
にかけて「ミューズの神」をおとしてみせます。  
ところでぼくは、ものごころがついて中学生の頃まで
はクラシックにどっぷり浸かっていて、自分では才能
があると勝手に信じていましたよ。吉松さんも実は、
子供の頃は天才少年といわれてたのでは?     

藤岡幸夫
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